ノーベル賞の価値

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先日、日本人がノーベル賞を取った話題を取り上げましたが、それに対してどうもイタリアの物理学会がノーベル賞を盗んだと言っているとか。正直、浅ましいとの印象しか受けません。
小林・益川理論の基礎となったのはカビボ氏の理論だがカビボ氏が対象から外されたためだということだそうで。イタリアの物理学会はともかく本人はどう言っているのでしょうか。報道を見る限り公式にコメントを出してはいないようですね。
私が思うには、本人は賞をもらうことにそれほど固執してはいないのではないでしょうか。ただ、周りが騒いでいるだけだと思っています。
物理学に造詣は深くないので詳しいことは分かりませんが、今回の理論、その世界では「カビボ・小林・益川理論」などとも呼ばれ、基礎理論がカビボ氏のものであることは周知の事実であるようです。科学者にとってはこれで十分なのではないでしょうか。
もちろん、高額な賞金もあることですし貰えるものなら賞を貰いたいというのはあるでしょうが、初めから賞が欲しくて研究をしている科学者など極めて少数なのではないでしょうか。研究することが好き、面白いなどが研究を続けられる理由だと思うのです。その結果がたまたま賞だったということだと思うのです。賞をとれなかったからと言ってカビボ氏の理論の価値が低くなるわけではないでしょう。
それなのに、「俺(今回は本人ではありませんが)に賞をよこせ。」のように実よりも名のようなことを言うのは科学者としてどうなのかなあと思ってしまいます。
しかしここで小林・益川両氏が「イタリア物理学会がやいのやいのうるさいのでノーベル賞を辞退します。別に賞のために研究をしているわけではありません。そんなに賞が欲しいのならイタリア物理学会に上げてください。」とか言ってくれたらすごくかっこいいですね。まあ、ないでしょうけども。
もしそうなったらイタリア物理学会はどういう態度を示すのでしょうかね。「とんでもないことになってしまった」となるのか、「ほらみろ。やっぱりカビボ氏こそが相応しい。賞をよこせ。」となるのか。後者だったら最悪ですね。

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ノーベル賞発表

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日本人がノーベル賞を取ったそうで、おめでとうございます。知り合いでもなんでもありませんが同じ日本人として喜ばしく思います。
村上春樹氏は残念でした。
とはいえ成した業績の価値は変わりません。すごい作家であることは疑いもないことでしょう。
などと書いておりますが、私、村上春樹氏の本はほとんど読んだことがありません。唯一読んだのは「ねじまき鳥クロニクル」ですが、この本の中のクミコの行動がややトラウマとして印象に残ってしまっておりどうしても他の本を読む気になれないのです。
ここ1年ほど本屋に行くと村上春樹コーナーなるものをよく見かけました。ですが、私の足はそのコーナーの前を完全に素通りしていたのです。
ノーベル賞にノミネートされるくらいだから読まねば、、などとは思いません。
賞を取った本だからといって興味をもつことはあんまりないですからね、、。今後も自分が面白そうと思った本だけ読んでいきます。いえ、村上氏の本が面白くなさそうというわけではないですよ。ただ、、トラウマが、、。
何はともあれ、ノーベル賞を取った2組の方々はおめでとうございます。

10/13追記 3組でしたね。南部名誉教授を忘れていました。すみません。

人が成し遂げなかったことをするには
妄想>想像>予測>観測>事実
という過程を経ると思っている私であります。
それぞれの間には計り知れない壁がありますが、起点となる妄想は大切なんだなあと改めて思った出来事でありました。

なおざりとおざなり

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長い間、なんとなく意味は知ってるけどはっきり知らない。違いがはっきりしないと思っていた「なおざり」と「おざなり」。
今までなおざりにしてきましたが重い腰を上げて調べてみました。
どうやら、「なおざり」はほったらかしにして対応しないこと。「おざなり」は対応はするけど内容が適当なまま終わってしまうこと。というような意味合いのようです。
この言葉を聞くたびに(あぁこの使い方は合っているのだろうか?)などと思っていましたが、これからはそんな疑問を抱かずに済みます。
さて、突然こんなことを調べたのには理由があります。まぁ例の如く仕事の話です。
単なる長い愚痴なので暇でしょうがない人だけ読んでくだされ。
私は仕事でプログラムを作ったりしているわけですが、プログラムを作るにあたって仕様を決めねばなりません。簡単にいうと、こういう機能があって、こういう風に動いてってことを決めるわけです。
自分だけで決めて勝手に作るわけにもいかないので、まず文書として仕様書というものを作成して上司や関連者に合意を取るわけですね。
当然、すべての機能を使いやすくできればベストなのですがなかなかそうもいかず、(ここはユーザに優しくない機能だなあ。でも開発期間の制限もあるしなあ。この機能を使いやすくすると、相当時間をとられるなあ。そうすると他の機能を削らねばならぬなあ。どうしたものか。)などと葛藤することもあるわけです。
そこで、(仕方ない、削れる機能はないし、多少の使いにくさはしょうがないとして、まずこれで提出してみるか。)などと決断することがあるわけです。
そして会議であーでもないこーでもないと話すのですが、上記の経緯で決定したものはユーザに優しくないことは百も承知であるので会議の場で確認するのです。
私「ここは、こんな感じでちょっと使いにくいですけどどうですか?こうすれば同じことはできるんですけど。だめならもう一度考えてみます。」
などと確認を取るわけです。すると、
上司など「代替手段があるならそれでいいんじゃない?」
などと余りにもあっさり決定して拍子抜けすることがあります。
私「こういうデメリットがありますけど本当にいいですか?」
とちょっとしつこいくらいに確認するんですが、答えは同じでそのまま会議は終わります。
会議後にも配布した仕様書に対する指摘は上がってきます。ですが、その内容は「誤字がある。」だの「段落がずれている。」だのくだらないものが大半であることが常です。
もちろん、人に見せる文書であるので体裁を整えるのが不要だとは言いませんが、肝心の仕様の可否を全く見てくれていないのです。
そしてそのまま、開発も終盤に突入します。
その段になって、ようやく
上司等「ここ使いにくいんだけどなんとかしてよ。」などと言ってきます。
何言ってんだ。何度も確認したのにそっちがOKだって言ったんじゃないか。
今からそんなとこ直せるわけねーだろ。と思いつつ
私「でも会議で何度も確認したけどOKって言いましたよね?」
などというのですが、
上司等「使いにくかったら駄目だろぅ」
バカ!だから何度も確認したんだろうが!
だったら最初から言え!
ということがありまして。。
ここでタイトルに繋がるのですが、
仕様書の確認を「おざなり」にしやがって。?あれ?「なおざり」にしやがって?どっちだろう?
などと思って現実逃避的に意味を調べ始めたというわけです。
結局、仕様書の本質的な確認を「なおざり」に、全体を「おざなり」にしたというのが正解でしょうか。

残業するのは無能の証?

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皆さんおはようございます、こんにちは、こんばんは。ご無沙汰しております。
ようやく仕事も一段落・・・などする訳もなく、、相変わらず忙しい日々を過ごしています。時々胸が締め付けられるような痛みを感じ、明らかに寿命が縮んでいるなぁと実感する今日この頃です。
体力的にはきついですが精神的には参ってしまわないように色々工夫しているので何とか耐えることができています。この仕事、体もそうですが精神的にきついですからね。こちらのケアが大事です。
プログラマを目指している若人たちは、自分が精神的に強いかどうかを考えてみてください。もし自分が精神的に脆い方だと思うのなら目指す道を考え直すことをお勧めします。
そんな状態なのでやはり全くネタがない。仕事のことを書くしかないのであります。
無理に書かなくてもいいと言われればそれまでですが、愚痴りたいんだよぅ。
うちの会社特有の現象なのか分かりませんが、常々不思議に思っていることがあります。それは、「仕事をしない人間ほど定時きっかりに帰っていく」ということです。仕事をしないんだから仕事が溜まっていって残業しなければいけないんじゃないかと思うのです。ですが不思議なことに定時に帰っていきます。
いや、まあ、原因は分かっていますが、、、不思議だなあと錯覚しておかないとやり切れない。
偉い人たちは「残業するなんて時間内に仕事を終えられない無能な証」などと言います。まあ、言っていることはわかります。私もそうであればいいなあと思います。ですが現実はそうではありません。

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